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タモの恩返し
2008-08-10 Sun 13:59
赤塚不二夫が死んだ。

01赤塚画像01


告別式でタモリが感動的な弔辞を読んだから、

ってわけではないんだけど、

実は、俺のなかで「赤塚不二夫」って言うと
『おそ松くん』や『ひみつのアッコちゃん』の作者としてではなく、
“タモリを発掘した人”って印象が強い。

星新一からはじまり、中高生時代にSF小説を読み漁ってた俺は、
当時、筒井康隆が大好きで、雑誌などの筒井のエッセイに書いてある
ジャズピアニスト・山下洋輔やサックス奏者・坂田明なんかとの
バカバカしい交友録なんかを憧れの思いで読んでた。

その流れのなかで、
『山下洋輔がタモリを発見し、
 赤塚不二夫が東京に呼び寄せ面倒みていた』、
という話も知っていた。

 おもしろいヤツがいる、ってだけで東京に呼び寄せるヤツ。
 来いよ、と言われて、ほいほい上京しちゃうヤツ。


無責任で無計画と言えば確かにそうだけど、
60年代後半から70年代の彼らの破天荒な生活ぶりを、
書物越しに覗き見ていた俺には、
赤塚やタモリの行動も
そういうことができてしまうエネルギーや空気も
子供ながらになんとなくわかるような気がした。


九州での仕事を捨て上京してきたタモリは、
赤塚の用意した住まいでのびのびと過ごす。
赤塚からは何を強制されるわけではなく、
タモリは毎日を自由気ままに過ごした。
赤塚の高級車を勝手に乗り回すタモリに文句も言わず、
いつもタクシーで移動していたという赤塚、
そんなエピソードさえある。


02ふたり01


タモリの才能を愛する赤塚は
物心人 etc多方面からタモリをゆるやかに包んだ。

それは偉大な音楽家や画家を応援した
欧州の寛容なパトロンや
特技のある人物を愛し、食客として手元においた古代中国の諸侯、
あるいは、
目的を同じくする同志や義兄弟的な結びつきが、ごちゃまぜになったような
関係だったのかもしれない。


タモリは好きなときに呑みに出かけ、
赤塚のツケで呑み食い、
赤塚の知り合いの文化人・業界人らと交遊を深めるなかで
知名度を上げ、その奇才ぶりを世に知られていくことになる。




8月2日、赤塚不二夫は6年に及ぶ闘病生活を終え、
そしてその5日後、タモリが弔辞を読んだ。


03弔辞7


●タモリの弔辞
http://jp.youtube.com/watch?v=FEbCuPjYb-w


いつもの軽妙さをかき消して
一語一語ゆっくりとした口調で語るその内容は、
愛慕の念に溢れた感動的なものだった。

しかも、これはワイドショーでも話題になったが、
弔辞を読むタモリの手元の経本折りの原稿は、白紙。

まるで何千語もの哀悼の文字が本当に書かれているかのように、
時おり白紙の原稿をめくりながら
7分50秒に及ぶ長い弔辞を
1カ所も言いよどむことなく、言い間違うことなく
諳んじたタモリ。


「わたしもあなたの 数多くの作品のひとつです」

04弔辞05


そう最後に語りかけた言葉は、
ふたりの関係を知る人のみならず
万人の心を打つ、まさに名言だった。



白紙の原稿を読み上げたタモリについては
その真意についてさまざまな意見があるらしい。


けど俺は、
あれはタモリと赤塚不二夫との
最後の“遊び”
だったんだと思いたい。


赤塚の死を聞いて、タモリの心中に最初に去来したのは
「俺も先生の作品のひとつだったんだよなあ」
って感慨だったんじゃないだろうか。
あるいは、口には出さなくても常日頃からそう思っていたのか。


で、タモリは、赤塚の愛情により育てられた
“芸人タモリという作品”らしく
赤塚不二夫が投げて寄越した「恩人の死」ってお題に対して、
「告別式での弔辞」というネタを演じきることで
答えたんだと思う。



05弔辞6
『あなたにとって 死もひとつのギャグなのかもしれません 』


06弔辞03
『そして私に「お前もお笑いやってるなら弔辞で笑わせてみろ」と』


07弔辞04
『言っているに違いありません』


それはお笑いの大看板になったタモリから
赤塚不二夫への恩返し


事前に、下書きすることなく、
構成を練りに練るわけでもなく、
頭から煙がでるほど暗記するわけではなく、
告別式の、
その場で
ジャズのジャムセッションのように、
胸の内にあるさまざまな想いを紡いで、
即興(アドリブ)で弔辞をつくりあげる。



普通にみてたら、
数十年の日々を、この数日間あらためて振り返りながら
徹夜でもして仕上げたかのような感動的な弔辞。

けど、

時折めくる手元の巻紙が白紙であることに気づけば
実はそれがネタであることがわかる、
そういう奇才らしい仕掛け。


ジャズ好きのタモリは、特にインプロビゼーション(即興・アドリブ)が得意で、
笑っていいとも、などの番組でも、
いきなりダンスや楽器のものまねを器用に本物らしくやってみせる。
この即興が、タモリの芸の神髄

そしてもうひとつ。
タモリの芸にあるのは、知的な不謹慎さ。
初期のタモリは、ひとつ間違えば顰蹙を買いかねない
キワドイ芸が持ち味だった。


赤塚不二夫の告別式は
まさに、タモリが得意とし、
赤塚が愛した
“知的な不謹慎芸”“リアルな即興芸”が発揮できる最高の舞台

だったのだ。

もちろんタモリの口から出てきた弔辞は
まぎれもない本音であり、
7分50秒ではいい足りないほどの想いが込められていた。

しかしそれをそのまま語るのではなく、
芸人らしく、大ネタにしたタモリ。

本当に原稿を読んでいるかのように、
白紙の経本折りの原稿をめくり、
即興であるにもかかわらず、
熟考されたかのような心打つような哀悼の言葉を口にすることで、
“告別式の弔辞というネタ” をリアルに演じきった。

それは、
タモリの才能を見いだし、育てた赤塚に対する
最後のネタ披露であり、
赤塚とタモリの“最後の遊び”。

そう、
赤塚が、自身の死をお題にし、それにタモリが応え 
ふたりが大真面目にやりきった
不謹慎ネタ、“弔辞ごっこ”だったんだと思う。


タモリには、告別式の会場のどこかで、
「おまえ、やっぱり面白いよ」って
大笑いしてる赤塚の姿が見えていたにちがいない。

08弔辞01
『あなたは今、この会場のどこか片隅に
 ちょっと高い所からあぐらをかいて』



09弔辞02
『肘をつきニコニコと眺めていることでしょう』



弔辞を依頼されたタモリの頭の中では、
亡き赤塚との間でこんな会話が交わされたんじゃないないだろうか。
数十年前の若かった頃、
ふたりでバカバカしいことばかり面白がってやっていた
あの頃のように。


 赤塚「じゃさ、最後におもしろいことやろうよ」
 タモ「いいっすねぇ、なにします?」
 赤塚「せっかくオレ死んでんだしさ、それをテーマに何かやってよ」
 タモ「うーん。お通夜・・・告別式・・・」
 赤塚「告別式の弔辞なんかどう?w 弔辞をハナモゲラ語でやるとかw」
 タモ「ハナモゲラw 先生、それは狙いすぎてるよw」
 赤塚「じゃあさ、即興でどう?」
 タモ「アドリブで?w」
 赤塚「即興好きだろ? 前もって考えずに、その場でどれだけ感動的なことを言うかw」
 タモ「よどみなく、まるで練習に練習を重ねたように?w」
 赤塚「そう、プロの弔辞師みたいにさw」
 タモ「プロの弔辞師!w そんなヤツぁいないってw」
 赤塚「なんにも書いてない白紙の原稿を読んでるようにしてさw」
 タモ「神妙な顔して、ときどき白紙の原稿めくったりw」
 赤塚「それそれww」
 タモ「いいねぇw」
 赤塚「当日が楽しみだな、酒飲みながら見てるからw」
 タモ「気楽でいいよね、先生はw」
 赤塚「だってオレ、死んでんだもんw」
 タモ「そりゃそうだw じゃ、当日、会場で」
 赤塚「うん、楽しみにしてるよ」



不謹慎な言い方だけど、
タモリは今回の弔辞で、
芸能界・お笑い界でもあるいは、TV視聴者の中でも、
ひとまわり大きい存在となったと思う。

そして、


その舞台を用意したのも、


やはり、赤塚不二夫だった。



10ふたり02




【弔辞(全文)】

8月の2日に、あなたの訃報に接しました。
6年間の長きにわたる闘病生活の中で、ほんのわずかではありますが、
回復に向かっていたのに、本当に残念です。

われわれの世代は、赤塚先生の作品に影響された第一世代といっていいでしょう。
あなたの今までになかった作品や、その特異なキャラクターは、
私達世代に強烈に受け入れられました。

10代の終わりから、われわれの青春は赤塚不二夫一色でした。
何年か過ぎ、私がお笑い の世界を目指して九州から上京して、
歌舞伎町の裏の小さなバーでライブみたいなことをやっていたときに、
あなたは突然私の眼前に現れました。
その時のことは、今でもはっき り覚えています。
赤塚不二夫がきた。あれが赤塚不二夫だ。私をみている。
この突然の出来事で、重大なことに、私はアガることすらできませんでした。

終わって私のとこにやってきたあなたは
『君は面白い。お笑いの世界に入れ。8月の終わりに僕の番組があるから
それに出ろ。それまでは住む所がないから、私のマンションにいろ』と、
こう言いました。
自分の人生にも、他人の人生にも、影響を及ぼすような大きな決断を、
この人はこの場でしたのです。それにも度肝を抜かれました。
それから長い付き 合いが始まりました。

しばらくは毎日新宿の「ひとみ寿司」というところで夕方に集まっては、
深夜までどんちゃん騒ぎをし、いろんなネタをつくりながら、
あなたに教えを受けました。
いろんなことを語ってくれました。お笑いのこと、映画のこと、絵画のこと。
ほかのこともいろいろとあなたに学びました。
あなたが私に言ってくれたことは、未だに私に金言として心の中に残っています。
そして、仕事に生かしております。

赤塚先生は本当に優しい方です。シャイな方です。
マージャンをするときも、相手の振り込みで上がると相手が機嫌を悪くするのを恐れて、
ツモでしか上がりませんでした。
あなたがマージャンで勝ったところをみたことがありません。
その裏には強烈な反骨精神もありました。
あなたはすべての人を快く受け入れました。
そのためにだまされたことも数々あります。
金銭的にも大きな打撃を受けたこともあります。
しかしあなたから、後悔の言葉や、相手を恨む言葉を聞いたことがありません。

あなたは私の父のようであり、兄のようであり、
そして時折みせるあの底抜けに無邪気な笑顔ははるか年下の弟のようでもありました。
あなたは生活すべてがギャグでした。

たこちゃん(たこ八郎さん)の葬儀のときに、
大きく笑いながらも目からぼろぼろと涙がこぼれ落ち、
出棺のときたこちゃんの額をピシャリと叩いては
『このやろう逝きやがった』と また高笑いしながら、大きな涙を流してました。
あなたはギャグによって物事を動かしていったのです。

あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに、前向きに肯定し、
受け入れることです。
それによって人間は重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、
また時間は前後関係を断ち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられます。
この考えをあなた は見事に一言で言い表しています。すなわち
『これでいいのだ』と。

いま、2人で過ごしたいろんな出来事が、場面が思い出されています。
軽井沢で過ごした 何度かの正月、伊豆での正月、そして海外でのあの珍道中。
どれもが本当にこんな楽しいことがあっていいのかと思うばかりのすばらしい時間でした。
最後になったのが京都五山の送り火です。
あのときのあなたの柔和な笑顔は、お互いの労をねぎらっているようで、
一生忘れることができません。

あなたは今この会場のどこか片隅に、ちょっと高いところから、あぐらをかいて、肘をつき、
ニコニコと眺めていることでしょう。
そして私に『お前もお笑いやってるなら、弔辞で笑わせてみろ』と
言っているに違いありません。
あなたにとって、死も一つのギャグなのかもしれません。

私は人生で初めて読む弔辞があなたへのものとは夢想だにしませんでした。
私はあなたに生前お世話になりながら、一言もお礼を言ったことがありません。
それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、
お礼を言うときに漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。
あなたも同じ考えだということを、他人を通じて知りました。
しかし、いま、お礼を言わさせていただきます。
赤塚先生、本当にお世話になりました。
ありがとうございました。

私もあなたの数多くの作品の一つです。

合掌。平成20年8月7日、森田一義



11還暦01

●赤塚不二夫とトンデモない仲間(1/8)1995年12月放送
http://jp.youtube.com/watch?v=apTgGZ6JmQ8&feature=related
※ 5分30分あたりでタモリの祝辞


●赤塚不二夫とトンデモない仲間(2/8)
http://jp.youtube.com/watch?v=Po2met3_0OE&feature=related




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